雑記 in hibernation

頭の整理と備忘録

かんじること、わかること、かんがえること

今ひとつ意味の違いがわかりにくい「感性」「知性」「理性」ついて、主に(近代)哲学的な文脈で、それぞれの意味やニュアンスに関して僕なりの理解をまとめておきます。ざっくりした理解なので、厳密な正確性には欠けるかもしれません。

感性

これが一番わかりやすいかもしれません。感性とは、感覚器官を通した感覚情報として外部の情報を受け取ることができる能力を指します。例えば、目に映る映像や、聞こえる音、手触り、暑い/寒い、といった個別の感覚情報を捉えることができるのは感性のはたらきによるものです。芸術作品などに感化されやすい人に対して「感性豊か」などというニュアンスとは異なります。

理性

理性とは、命題に対して合理的・論理的な推論ができる能力を指します。言い換えるならば、「合理的演繹推論能力」とでも言えましょうか。例えば、数学の公理から新たな定理を導く思考活動は、まさしく理性のはたらきによるものです。「溢れ出る感情をなんとか理性で抑えこむ」といったような世間一般的な使い方では、理性の意味は「冷静さ」や「落ち着き」のように捉えられます。しかし、厳密には「理性的」とは気質や性格のことを言っているのではなく、「(感情や本能に左右されずに)合理的に物事を考える力がある」という意味です。

知性

これが一番わかりにくいと思います。知性とは、元となる情報を統合して別の知識と結びつけるはたらきを指します。例えば、感性によって得られた見た目や手触り、味といった情報から、「これは林檎だ」とわかるのは、知性のはたらきによるものです。理性と異なるのは、理性がstep by stepで論理的かつ演繹的な積み重ねにより新たな知識を導き、体系を構築していく思考活動であるのに対して、知性の場合は、元となる情報を得た瞬間に「考えなくてもすぐにわかる」ような類の思考です。「直観」と言い換えても良いでしょう。上の例では、林檎の見た目や味の情報を捉えさえすれば、深く考え込まなくても瞬間的に「これは林檎だ」と「わかる」ことができます。

また、科学的思考において、知性のはたらきは不可欠です。観測された個別の事象から思考が出発した場合、そこから理性による演繹的な推論だけで仮説や法則にたどり着くことは不可能です。複数の事実や既存の知識から仮説や一般的法則に至る帰納的思考には、ある意味でロジックの「飛躍」が必要になります。この「飛躍」を可能にするのが知性の役割とも言えます。また、先程の林檎が「わかる」例についても、林檎というカテゴリの一般的判断基準(例えば赤い、丸い、甘い、ツルツルしている、etc... 。そのような一般的定義の共有認識が本当に存在するのかというのはまた別の論点ですが、ここでは脇に置いておきます)と感覚から得られた情報とが必要十分に合致せずとも、それが林檎であると「わかる」ことができるのですから、これも「知性による飛躍」の思考だと言えます。

余談ですが、カント哲学の場合は「知性」的なはたらきの能力を「悟性」と呼びます。

具体例

道端で犬を見つけたときの思考の流れを追ってみましょう。

  1. 姿を目で捉える、「ワン」という鳴き声が聞こえる、触ってみるともふもふしている → 感性のはたらき

  2. 見た目、鳴き声、手触りの情報を統合して、「こいつは犬だ」と(すぐさま)わかる → 知性のはたらき

  3. 今得られた「こいつは犬だ」という情報と「犬は人を噛むことがある」という既知の情報から、「こいつは噛み付いてくるかもしれない」と推論する → 理性のはたらき

  4. 逃げろ!


おわりに

以上、感性・理性・知性の話でした。

参考図書のリンクを以下に載せます。一般向けの哲学史解説本では「暗黒時代」的な扱いになりがちな印象のあるスコラ哲学の重要性を強調してたりして、とても面白い内容でした。


ちなみに、こちらに書籍の紹介ページもあります。

book.asahi.com