雑記 in hibernation

頭の整理と備忘録

冠詞とプラトンとソシュールと(養老孟司『バカの壁』より)

養老孟司バカの壁』についての紹介は、もう今更ですね。

妙に心に残っている一節があるのでまとめておきます。冠詞とイデア論の対応関係についてです。

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)


英語の授業で定冠詞と不定冠詞、つまり"a"と"the"の違いについて習った際、「何が違うねん」と悪態ついたのは僕だけじゃあないと思います。子曰く、あえて日本語に訳すのであれば、"a"は"ひとつの"で、"the"は"その" なんだそうです。何が違うねん。

養老先生がおっしゃるところでは、この"a"と"the"の違いが、まさにプラトンイデア論の考え方に対応しているのだそうです。


前提知識:プラトンイデア論

まず"イデア論"とはなんぞやと言うところからですが、ここでは後々の話が理解できる程度の簡単な解説に留めます。

例えば、僕たちは"三角形"と聞くと、それが意味するものを頭に思い描くことができます。しかしながら当然のごとく、この世の中にどんなに僅かな寸法の狂いもない「完璧な三角形」、もしくはその形をしたオブジェクトなどは実在しませんから、この世に真の三角形を見たことがある人もまた存在しません。であれば、なぜ我々は「三角形」という概念を知り得ているのか。

古代ギリシャの哲学者であるプラトンの答えはこうです。我々が生きるこの現実世界には「三角形」は存在しない。しかし「理想の三角形」、いわば「三角形の本質」みたいなものがあって、これを「三角形のイデア」と呼ぶ。同様に現実に存在するあらゆる物に対してイデアが存在し、このイデアの集合は我々の生きる現実世界とは異なる「イデア界」にある。そしてこの現実世界に存在しているのは、イデア界のイデアの「写し」にすぎない。我々の転生の過程でイデアを見ており、したがって物事の本質的な姿を見たことがなくともイデアを知っているのだ、と言うわけです。


不定冠詞とイデア

イデア論について学んでちょっと賢くなった気になったところで、話は冠詞に戻ります。

" This is an apple ." これは不定冠詞を用いた例文です。中学生的に訳すのであれば、「これは"一つの"りんごです」とでも言いましょうか。 この "an apple" が差し示す物は何かと言うと、「りんご」という共通概念です。それは僕が「りんご」と聞いて思い浮かべるりんごであり、あなたが 「りんご」と聞いて思い浮かべるりんごであり、僕の書机の上や、あなたの居間のフルーツバスケットの中に実在するりんごとは無関係に起きる脳内活動、つまりイメージとしての「りんご」です。この時の「りんご」に実体はありません。

ここで、僕が目の前に実在する、書机の上のりんごに触れる。この瞬間に不定冠詞は定冠詞に変化します。" This is the apple ." この"the apple"が意味するのは、外界の実体としての「りんご」です。それは僕が触れた「ここにだけ実在するりんご」に他ならず、あなたが 「りんご」と聞いて思い浮かべるりんごや、あなたの家の居間に実在するりんごとははっきり区別されます。

"an apple" が差し示す共通概念としての「りんご」は、プラトン流に言えば、まさしく「りんごのイデア」とも言うべきものであり、一方で"the apple"が意味するのはイデアの写しである実体としての「りんご」、と言うことになります。

これは、言語学においてスイスの言語学者ソシュールが「シニフィアン」と「シニフィエ」と言う言葉で表現した概念と対応しているとも解釈できます。「シニフィアン」とは「言葉が意味しているもの」と説明され、これは不定冠詞、イデアに対応します。一方、「シニフィエ」とは「言葉によって意味されるもの」と説明され、これは定冠詞、実体に対応すると捉えることができます。

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「冠されない」冠詞

では、定冠詞・不定冠詞が存在しない日本語ではどうでしょう。結論から言うと、日本語においても冠詞という形式で可視化されていないだけで、イメージと実体の区別は存在していると言えます。

日本一著名な冒険活劇のイントロダクションを例に見てみます。

昔々あるところに、おじいさんとおばあさん"が"住んでいました

この「おじいさん」は、聴者がイメージする概念としてのおじいさんです。

おじいさん"は"山へ芝刈りに、

こちらの「おじいさん」が指すのは、前文でイメージされた「おじいさん」に他なりません。ここでは、助詞の "は" と "が" が、それぞれ"a", "the"の役割を担っていることになります。

日本語の文章においても、単語の「冠」に明記されないだけで、定冠詞/不冠詞相当の機能は含まれているのです。

ということで、不可解な中学英語とギリシャ哲学と言語学の繋がりのお話でした。