この問題から一度解放されるために、現在の考えを記録しておきます。
ちょくちょく更新するかもしれません。
思考の範囲で完結する活動領域(つまり情報処理)の市場において、いずれ人間は価値を失うでしょう。
もう少し正確に表現すれば、市場において人が人の思考による価値創造を相対的に高く評価することはなくなるでしょう。
将来的には、人が行ってきた全ての情報処理は機械により代替可能(しかも、より高いパフォーマンスで)となるからです。
情報処理とは、意味(概念、あるいは情報)のネットワークから、新たな意味を発見・創発する作業です。
- 「思考」と呼ばれる行為、例えば推論や想像や判断といったことは、情報処理の一種です。
情報処理と区分される作業のうち、特に定式化された一部の作業において、機械は人よりも高いパフォーマンスを発揮してきました。
また、情報処理の一部は、人間の聖域と看做されてきました。
しかし、昨今の技術革新は、その「聖域(思考や創造)」の領域においても、機械が「意味(概念、あるいは情報)のネットワークから、新たな意味を発見・創発する」ことを可能にしつつあります。
- 僕には、今現在で機械に実現されていない思考行為と、すでに今達成されている思考行為との間に本質的な差を認めることができません。
その結果として、人が思考することは不経済であり、非合理的なことして扱われるでしょう。
そうなった時、「考える」ことに関わる領域で、人は、少なくとも経済性・合理性の観点では無価値です。
それでもなお、この先、人が価値を失う日が本当に来ると信じることはできません。それは何故でしょうか。
もう少し正確に表現すれば、この先どれほど技術が進歩しようとも、人は人に価値を見出さずにはいられないのではないか、という確信が、少なくとも僕にはあります。
この確信の根拠は一体何なのでしょうか。
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「身体をもつ」というレギュレーション、その制限下で競われるゲームがあるように思われます。
例えば、短距離走は生身の体で速さを競うことに意味があります。
仮に機械が参加して100mを5秒で走り、人類の最速記録を塗り替えたとしても、そこに感動が生まれることはないでしょう。
余談ですが、パラリンピックにおいて義肢のレギュレーションを取っ払ってみたら(そういう部門を作ってみたら)どうかと考えたことがあります。
それが「スポーツ」であるとすれば、やはり生身の身体への負荷が重要なのだろうと思います。
それは、生身の身体であることそれ自体が、何らかの価値に関わっていることを示唆します。
- もう少し正確に言えば、生身の身体という制限があることが、何らかの価値を生み出しているようです。
至極具体的な例を示しましたが、しかし、これは一般的な意味での「競技」や「ゲーム」を超えて、人の生のあらゆる場面に当てはめることができるでしょう。
そのゲームに参加できるのは、「身体」という限界を持つ者です
- それはすなわち、人間です。
つまり、ゲームへの参加条件が身体性であり、それに参加することで、そのゲームの内においてプレイヤー同士で人間としての価値を認め合うことができます。
であるならば、そのゲームへの参加権は「人間性」と呼ばれるものと同じ意味であるように思えます。
身体性それ自体に普遍的な価値があると言い切ることは、僕にはできません。
- つまり「ゲーム」という観点では、より広範なの意味での(つまりゲームの外でも通用するような)価値を身体性に認める道理がありません。
人は、この種のゲームを続ける限りで、自らの価値を失うことはないでしょう
言い換えれば、このゲームを続けることで人は人に価値を認め続けることができます。
逆に言い換えることもできます。つまり、自らの価値を示し続けるために、人はこのゲームを続けなくてはなりません。
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しかし、人はこのゲームを放棄することができるのでしょうか。
実はこの種のゲームは、人が人である以上それを続けざるを得ないような何かなのではないでしょうか。
それを考えるためには、このゲームの起源に遡らなくてはならないでしょう。
もしも、このゲームが人が人であることに対して必須のものなのだとすると、人が価値を持ち、維持することができるのは、自らが価値を持つ空間を創造できるからなのかもしれません。
倫理や道徳も、そうして作られたゲームの一つなのかもしれません
或いは、自らが何にも犯されることなく価値あり続けられる空間を創造できることこそが、人間の本性なのかもしれません。
単純化するなら、身体性は人の価値の源泉と言えないでしょうか。
人は身体という限界を鍵に、自らの存在に価値を見出し合うのです。
- 身体性という鍵を無くして、自らの価値を保証するゲームに参加することはできません。
では、なぜそのようなゲームへの参加条件が「身体性」なのでしょうか。そこにはどのような必然性があるのでしょうか
- 或いは、それは全くの偶然なのでしょうか。