雑記 in hibernation

頭の整理と備忘録

目的についての殴り書き - 不毛な効用と豊かな無駄について

ふとしたきっかけで國分功一郎氏の『目的への抵抗』を読みました。以前より、「これは多分、自分が常々考えているのと同じようなことを言っているのだろうな」とタイトルから察していたのですが、いざ読んでみると案の定、というか想定以上に類似点が多く。これはヤバい、かねてより自分の中で考えていた諸々の仔細がこの本の内容で上書きされてしまう、と危機感を抱いたため、そうなってしまう前に僕の思考のオリジナルを書き殴って記録しておこうと思います。


僕たちの身の回りには、有意義で有意味な物事が溢れています。それらは、何らかの目的を達成する手段として要請されてそこに存在し、その限りで「有意義」で「有意味」と見做されます。そして「有意義」や「有意味」で満たされた生活ほど質が高いと評価される傾向にあります。しかし、生活を「有意義」な時間で満たすことは望ましいと、本当に言えるのでしょうか。

何かを目的とした手段ではなく、それ自体が目的であるような事柄は、「有意義な手段」よりも尊い(この「価値の高さ」を表す良い表現が見つからなかったため、こう表現しました)ように、僕には思えます。なぜなら、それは存在価値の基準を外部の尺度に依存することなく、そこに存在するからです。手段の存在価値は、目的に対する合目的性によって測られます。仮に目的に合致しなくなったり、目的自体が消滅してしまったり、別のより良い手段に代替されてしまえば、その瞬間に価値を失いますから、その点で手段の価値は脆弱です。一方で、それ自体が目的である事柄は、価値の基準をそれ自体の中に持ち、外部の何者にも依存しない点でロバストだと言えましょう。このような事柄は「有意義」「有意味」に対する「無意義」「無意味」、もっとストレートに表現するならば「無駄」という言葉で括られるような物事であり、そう考えると、「無駄」は「有意義」「有意味」な物事に劣後するものであり生活から一切排除すべきある(あるいは、その「有意義」「有意味」に寄与する限りで存在を許されるべきである)というふうには、僕には到底思えないのです。

現在の成長至上主義社会(ここでの「成長」とは、資本主義が駆動する社会経済コミュニティ、あるいはその中で生きる個人、その両方における「成長」を指します)が要求するのは、人間が持つ時間というリソースを「成長」という目的のための手段へと変換することです。しかし、その要求に従って人生のまるごとを手段化することは、自らの生の価値基準を自分の内から手放し、外部の尺度に依存することに他なりません。極端に単純化するならば、どこかの誰かが決めたアルゴリズムで算出された「人生スコア」が今際の際に提示され、それに一喜一憂しながら死んでいくような、そんな一生です。そしてそれは、誰かに褒められることで初めて実感される、他者依存の価値しか持たない生です。そうではなく、個々が持つ時間を「それ自体が目的であること」つまり「無駄なこと」で満たしていくことで、真に良い生が実現されるのではないかと、僕は思うのです。この主張を一言で表すならば次のような表現になるでしょう。「限りある時間を不毛な効用へ変換することはやめて、豊かな無駄で満たしていくべきではないか」。

ところで、前段にて「真に良い生」という言葉を使いました。「真に良い生」とは何でしょうか。それはわかりません。正確に言えば「その生を生きた当人にしか」わかりません。なぜなら、その「良さ」はその生を生きた当人の内側にあって、外的な尺度(つまりその人生の外に存在が想定される「目的」)で測れるとは限らないからです。場合によっては、あらゆる他人の目から、その人生は「無駄」であったように見えるでしょう。その「測れるとは限らない」不可測性こそが、その人生が「無駄」であったこと、そして「真に良い」ものであったことの証左となるのです。

しかしながら、現実問題として「無駄」な事柄で生活の全てを埋め尽くすことはできません。生命の維持を目的とした最低限の経済活動は必要です。あるいは「最低限の経済活動」のみでは、結果的に無駄を享受するため時間すら確保できないかもしれません(「貧乏暇なし」とは言い得て妙ですね)。しからば、政治が志向すべきは、如何にして全ての市民が無駄に費やせる時間を十分に獲得できるか、ということではないでしょうか。これは、従来から脱成長という標語で主張されていることかもしれませんし、あるいはベーシックインカムがその具体的な回答の一つなのかもしれません。際限のない成長への投資を、少しでも「働かずに済む」ことに回せないだろうか。そして究極的には『幼年期の終わり』のような、万人が労働から解放され、芸術や自己表現を謳歌できる社会が来たならば。

「芸術」という言葉が出てきたので、これについて考えていることにも少し触れておこうと思います。近年、生成モデルやLLMによる技術革新により、嘗ては人間の特権とされてきたクリエイティブ領域に人工知能が参入しつつあります。本題から逸れるため、ここで詳細を語るのは避けますが、いずれ機械は創造性において人間と相違ないパフォーマンスを発揮し、少なくとも職能と言う面では、人間からクリエイティブ領域を奪取してしまうでしょう(そう考えない理由がありません)。その時に至って人間に残されるものは、やはり「手段」ではなく「目的」としての創作行為なのだろうと思います。要するに単純な話、経済活動として何かを目的とした(つまり手段としての)創作活動は機械にとって変わられる一方で、趣味としての(つまり目的としての)創作活動は依然として人のものであり続ける、ということです。

この際もう一つ言及しておくと、あらゆる分野において価値創造行為の大半を人工知能が取って代わろうとも、人が介在すること自体が「価値」であるような事柄は、きっとこれからも価値を持ち続ける(むしろ、それが唯一人間に生み出せる価値としての存在感を高めていく)のでしょう。例えば、箱根の寄木細工を3Dプリンタで模倣することは(詳しくないですが、多分)技術的に可能ですが、一方では人手であの精巧な模様を作り上げるからこそ、人はその「人の営み」に価値を見出すわけです。このような「身体性」「一回性」「現実性」といった概念に価値の源泉を持つ事柄を、僕はざっくりまとめて「曲芸」と呼んでいますが、これこそが人工知能の時代に生き残る(唯一の)人間的価値になろうと僕は思っています。このように考えると、「目的/手段」という対立軸は、本質的には「価値基準のありかが内部/外部」の対立であり、人間の内に価値基準を持つ「曲芸」と「目的」とが対応関係にある、ということなのかもしれませんが、これについてはまだまだ考えを深める余地があるように感じます。


さて、一通りのアイデアは吐き切りました。そもそも、こういったことを考え出したきっかけは、方々に感じる自己成長への圧力でした。感度高くアンテナを張って日々を過ごすべし。多様なコンテンツに興味を持ち、可能な限り消費すべし。時事や世界情勢を常にチェックすべし。ソシャゲなぞにうつつを抜かす暇があるなら、その隙間時間で読書に励むべし。経営者目線を持つべし。勉強会に参加すべし。人脈を築くべし。資格をとるべし。英語を習うべし。より多くの知識を。経験を。箔を。etc。etc。etc。

いやはや、まったくもって「クソ喰らえ」ですね。俺はもう疲れた。うんざりした。そこまでして、何かを削って頑張り続けなくちゃあ人並みにも生きていけないような世界なら、それは何かが間違っています。もともと地を這うように低い意識と労働意欲を誤魔化し誤魔化し、違和感を抱きながらも何とか社会に迎合してきたつもりでした。しかし、育児休業で浮世から隔絶された生活を送っている間に違和感は思想の輪郭を帯び、いつの間にか「アンチ成長社会」なスタンスがすっかり固まってしまったのだから困ったものです。まぁ割り切って仕舞えば居心地は悪くなく、「無駄を無駄として存分に享受する」スタイルに開き直りつつもあり、しかしやはり隔世の感が強まっているのも否めず。唯我独尊に我を通せるような器でもないので、なんとかバランスと社会性を保って生きていきたいと思うこの頃です。


ところで、上で考えてきたことから派生して、まだまだ考えが及んでいない論点もありますので、認識している範囲で列挙してみます。

「それ自体が目的」であることも、究極的には何らかの原始的な欲求を満たす手段のはずだが、ではそのような「手段」と本文で語ったような「手段」との違いは何か。

個々人が自分の内の価値にだけ従って生きるべきという考え方は、一種のアナーキズムではないか(そもそも、そういった個人の群から一体どんな共同体が成立しうるのか)。

手段が自己目的化するようなケースもあるのではないか、あるいはその目的化された手段に身を捧げることこそが一般に「充実した生」と呼ばれるものではないか。

「曲芸」の概念と「目的/手段」の概念はどのように関係しているか。


自問自答 goes on.