雑記 in hibernation

頭の整理と備忘録

本の話 - その1. 読書が嫌い編

僕は読書が嫌いです。小説とかエッセイなんかは良いとしても、ビジネス書や技術書に対しては強い苦手意識があります。激しく頭を使うし、なけなしの集中力がすぐに底をつくからです。活字耐性は、子供の時分に読書に慣れ親しんだかどうかで決まる、と聞いたことがあります。しかし僕は物心ついた時から本が嫌いでした。本に親しみ、部分的にはそれを生業としていた両親の元で育ってもなお、本が嫌いでした。不思議と現代文の成績が頗る良かった事は数少ない自慢の一つですが、それでも小・中・高・大学生と、全ての時間軸において僕は本が嫌いでした。だから、僕の活字嫌いはきっと、先天的に「そう生まれてしまった」以外の理由はないんじゃあないか、と思います。

嫌いなら嫌いで距離をおけば良さそうなものですが、残念なことにそれは不可能です。僕の好き嫌いとは全く無関係に、現代において書籍ほど優れたメディアもまた存在しないからです。存在しない、と強く言い切ってしまいましたが、勿論、これは僕の所感です。しかし、それは強く言い切ってしまって良いと思うくらい、確信めいた感覚でもあります。

その理由は、特にこの直近10年において、ネット上で手軽に入る情報の質の低下に比例して、相対的に書籍というメディア上に実装される情報の価値が上がっていることにあります。何かの情報を手に入れようと思った時、ほとんどの人は初手にサーチエンジンを使った検索を選択するでしょう。しかし、インターネット上に転がる無料の情報、特に綿密なSEO対策が施されて上位に表示されるページの多くが、無益なものです。それらの情報のほとんどは、第一に断片的で前後関係や体系を持ちません。情報は文脈の中で初めて意味をなすものです。切れ端のような部分的な情報は、往々にして表層的な意味の解説に留まるものです。第二に、その文責が曖昧なものになりがちです。情報の出自は、その文章の信憑性を判断するために重要です。発信者の社会的IDと情報とを紐づけることで、発信者に対して、情報に責任を持たざるを得ない、というプレッシャーをかけることができます。これにより、情報に一定の(あくまで「一定の」)確からしさを担保することができます。また、情報はその発信者のスタンスが明かされて初めて、その真偽をフェアに判断することができます。その点で、発信者のバックボーンにつながる情報が明かされていることは非常に重要です。余談ですが、2022年の参院選の直前、自民党改憲案に関する情報をまとめた第三者によるウェブサイトが公開されていました。これは、発信者のスタンスが明かされていない、一方で記載内容における政治的は中立性は著しく低いという、誠実な情報発信のアンチパターンとして非常に良い例です(そして、明らかにそのような視点で公平性の判断ができない層を意識的に標的にしている点で、個人的には「吐き気を催す邪悪」を感じました)。なお申し添えておくならば、中立生の低さそれ自体はさして問題ではないと僕は思います。完全にニュートラルなポジショニングというのは、人間が発信している限り実現不可能です。大切なのは、書き手がどのようなイデオロギーを持っているのか、そのバックボーンの透明性です。

書籍というフォーマットの素晴らしいところは、それがそれなりの規模の出版社を通して世に出ている場合、ほとんどのケースで上記の論点をクリアしている点です。web上に不毛な情報が溢れる中、ある程度の信頼性・透明性・網羅性を持った情報は、大変に価値あるソースとなります。不思議なことに、これらの美点は書籍における物理的フォーマット、つまり、「まず”ページ”と呼ばれる空間的な区切りをもつ」「そのうえに、ページの区切りとは概ね無関係に文字情報が掲載される」「表紙をもつ」といった特徴とは無関係に見えます。このことは、書籍以外のフォーマットにおいても、書籍と同等の価値を再現できる可能性を示唆します。現に、書籍以外のメディアにおいても一定信頼に足る情報源は存在しますし、それらのメディアは先述の論点をクリアしています。しかし今現在、web上でサーチエンジンを通してこういった信頼性の高い情報にありつくことができるケースはやはり多いとは言えず、結果的に書籍の価値が高まっている状況にあると思います。

さて、前段まではweb上の情報と比較して書籍の持つ価値についてお話ししました。次は少し視点を変えて、文章という表現方法が他の方法、主に画像や映像と比較して優れている点についても考えてみたいと思います。文字の素晴らしいところは、伝えるべき内容を過不足なく(これが大事な点ですが、文字通り「過剰も不足もなく」)伝達することが比較的容易い点です。例えば、「私はペンを持っている」と伝えたいとき、文章で「私はペンを持っています」と書けば、その意味することは必要十分に伝え切ることができます。いや、当たり前なのですが、しかし当たり前ではないのです。そこに「私とは誰か」とか「ペンの材質は何か」とか、そういった伝える必要のない情報を完全に省き、必要な情報だけを載せることができるのです。これが映像ともなれば、そうは行きません。映像では「ペン」の概念を指し示すのに、具体的な「ペン」を描写する必要があります。この時、「ペン」には色や形といった文章の意味に対して本質的でない情報を伴わざるを得ません。言語学的にいうなら、映像ではシフィニアンを示すことができない、とでも言えましょうか(言語学に疎いので、間違っているかもしれませんが、、、)。このように考えると、文章の価値とは、伝えるべき情報の抽象度をコントロールできること、それにより情報伝達の効率を最適化できる点にあるのかもしれません。他にも文字の特徴として、「時系列の前後関係をもつ」「受け手が能動的に読み進める」という点がありますが、前者は動画が、後者は静止画が持つ特徴でもあります。僕は、ある程度の込み入った概念を理解する際に文章ほど優れたフォーマットはないと思います。しかし一方で、例えばエンジニアリングなどのテクニカルな分野についてキャッチアップしようと思った時、有志により動画サイトに公開されている解説コンテンツは非常にわかりやすく、個人的に重宝しています。あるいは、自分の仕事において問題の論点を整理して他の誰かに伝えようとする場合では、箇条書きは勿論、フレームワークを整理するための図やその他のビジュライゼーションが必要になることがあります。このように、文字・映像(静止画・動画)はその適切な用法とユースケースがありますが、それは先程示した時系列の有無や受け手の主体性が関係しているのかもしれません。

さて、ここまで活字の持つ利点についてお話してきましたが、実はこれが発揮される条件は非常に限定的です。その条件とは、書き手がテキストというフォーマットを使いこなすための技量を持っていること、そして同様に、受け手にもその器量がある、ということです。「書き手の技術」の観点では、特に一般的な書籍では、出版社・編集者が介在することで、必ずしも文章のプロフェッショナルではない著者であったとしても、情報の質を担保することができます。「読み手の器量」の観点は、つまりこれこそ僕が直面している問題であり、つまり「読書が嫌い」という問題に他なりません。

このように、書籍に高い価値を信じているからこそ、僕はイヤイヤ言いながらも最低でも月に一冊くらいはどうにか本を手に取るわけです。


こちらに続きます。

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