雑記 in hibernation

頭の整理と備忘録

本の話 - その3. 輪読会 in home編

こちらの続きです。最終章です。

toeming.hatenablog.com


その晩の食卓にて。読書会自体はまぁ面白かったよ、といったことを妻にも話してみました。妻は僕に勝るとも劣らず読書が苦手な人間です。しかし、一方で本や本に満たされた空間自体は好きらしく、物理書籍をよく買うものだから抱える積読は単調増加する一方、という深い業を抱えて生きています。僕はときたまそのカルマをお裾分けしてもらうことがあり、タダで本が読めてラッキーと言えなくもないのですが、それにしたって読みもしない本が決して安くはない東京23区の土地面積の幾ばくかを占領し続けている、というのはなんだか非合理でむず痒い気持ちがします。そして妻は妻で、その重すぎる十字架に耐えきれなかったのでしょうか、読書会の感想を聞いた彼女は「我が家で輪読会をしよう」というパートナー道連れ型の提案を、というか宣言を繰り出してきました。経験上、妻の行動力には素直に平伏しておいた方が生活が楽しくなる傾向にあるので、僕は大人しく道連れにあうことにしました。そんないきさつで、我が家の家庭内輪読会がスタートしたわけです。


ここで一応、そもそも輪読会とは何かについて確認しておきましょう。概ね以下のような活動を指すのではないでしょうか。

  1. 題材とする本を決める
  2. 発表担当者は、自らの持ち回りの章を読んでおいて、集まりの場で他の参加者へ向けてその内容を説明する
  3. 発表後、参加者で発表内容に対する質疑や議論を行う
  4. 発表者を変えながら会を繰り返して各章を読み進めていく

我が家の構成人数は現時点で2名、つまり妻と僕です。正確に言うと先月追加でもう1人アサインされたのですが、日本語に限らず言語能力全般にキャッチアップを要するジュニアレベルの人材であるため、当面の間パフォーマンスは期待できません。したがって、我が家における輪読会は妻と僕とで各章を読みながら課題図書をキャッチボールする形になります。輪読会のメリットとして、個々人の読書量の負担を下げることが期待できます。しかし参加者2名では、この利点は十分に活かされません。逆に、敢えて「輪読会」にすることで読書がノルマとして課される状況は、むしろストイックに自分たちを追い込んでいると言う他ありません。

とにかく怠惰な僕と、継続力に振るべきパラメータを行動力に全振りしてしまったような妻ですから、ストロングスタイルのままでサステナブルな読書会運営ができるとは到底思えません。そこで我々は、せめて一章を読み切るのに一切の期日も設けないこととしました。いや、実際には週に2回を輪読会の時間とするよう定めたのですが、その決まりごとは最初の数回のうちに有耶無耶になりました。そして(どちらかが相手の読書の遅さを煽り散らかすことは多々あれど)実質的には納期ナシ、とにかく自分の番の章を読み終えたら都度申告して輪読会を開催する、といった運用に落ち着いています。

僕の生業と妻のそれとは、異業種・異職種ではありますが、いわゆる「IT系」と括られるような分野である点は共通していますから、マクロな目線では「ほぼ同じ仕事」と言って良いかと思います。ですから、当然視点や価値観も似通って然るべきです。しかし、それでもなお自分にはない視点での意見をぶつけ合うことができているのですから、人の持つ個性、その多様性とはなかなか侮り難いものです。僕は物事を哲学や思想、あるいは寓話といったフレームワークに結びつけて一般化して捉える傾向にある一方、妻はもう少し実学的な視点や経験を照会しているように思います。このような世界観の違いがあるからこそ、一つのテーマに対して複数の角度からスポットを当てることができるのかもしれません。また、例えばまるで同じ、あるいは正反対の(=従属関係にある)ベクトル同士を合成してもその方向が変わることがないように、どこかでは異なる、しかしどこか重なる成分があるからこそ、議論の船首は向きを変え、予想だにしない方向へと向かうのでしょう。そんなことを考えていると、それではもう一つ上の次元の視点を獲得するにはどうすれば良いのだろう、と考えてみたくなります。外積のような、二元論を超える弁証法のようなコミュニケーションとは。

さて、いい感じに思考が迷子になってきたので、3回に渡って書き連ねてきた僕と読書にまつわるエトセトラはこの辺りで仕舞いにしようと思います。以上、本の話でした。