雑記 in hibernation

頭の整理と備忘録

【個人的まとめ】実存と構造

個人的な事情により、一年位前に読んだ書籍を読み返してまとめました。備忘録としてメモです。

概要

どんな本?

新書。2011年に初版刊行なので、ちょうど10年くらい前の本ですね。

どんな筆者?

三田誠広氏。芥川賞も受賞している作家さんです。翻訳や書評も。大学で文学の教授なども務めていて、アカデミックな世界の方です。

要するにどういう話?

本書では「実存主義」と「構造主義」という思考のフレームワークについて解説し、それが中世から近代、現代と時代が進む中で文学にどのように表出してきたかを論じます

「実存」とは個々の主体やそのストーリーであり、「構造」とは共通項を持つ要素が集められ整理されたものです。実存主義構造主義は表裏一体であり、実存的な視点では人の選択は限りなく自由であり孤独ですが、その一方で構造の世界では物語は「よくある人生」としてパターン化されます。実存主義は当事者として可能性を切り開く視点であり、構造主義は俯瞰した視点で出来事を冷静に受け止めて分析する視点と言えます。

中世から近代になり人々が自由な人生を選択できるようになる中で主体的な実存主義が意識されるようになりますが、同時に共同体との距離がることによって孤独感や無力感・国粋主義に対する反発から、実存主義は行き詰まります。一方でレヴィ=ストロースが神話や民族文化の研究の中で見出した「構造主義」は、独立した事象に対してルールや規則性を見出そうとする点で、主体の意思と可能性を実存主義に対立する概念でしたが、個々のストーリーを並列化・俯瞰することで実存の孤独を一般化して癒す機能も備えていました。

この時代の移り変わりと実存と構造の関係は、折々の文学作品に色こく現れています。中世にはファンタジーが主だったのに対し、19世紀には自由な現実を良く生きる糧となるリアリティな作品が好まれました。20世紀に入り、カフカの『変身』や『審判』のように近代社会における自由であるが故の孤独感や国家権力に対する無力感が実存主義的な文学として表現されました。また、ドストエフスキーの『罪と罰』やカミュの『異邦人』は神なき時代に共同体の規範を超えて生きる実存の悲劇を描きました。

このような実存主義的な物語に対し、構造主義的な物語構造の代表として、神話的手法を盛り込んだ南米文学の代表作『百年の孤独』があり、同時代の作品に大きな影響を与えました。プイグの『蜘蛛女のキス』や大江健三郎の『新しい人よ目覚めよ』からは、実存の苦悩を癒す構造主義の機能を見てとることができます。また、中上健次の『千年の愉楽』は回帰的な構造により曼荼羅のようなスケール感を予感させる世界観の作品となりました。

各章のメモ

1章:実存という重荷を背負って生きる

実存主義といえば20世紀の哲学者サルトルが有名ですが、17世紀の学者パスカルの「考える葦」に表現されるように、主体的に世界に立ち向かう孤独な精神のあり方は中世の時代から意識されていました。かつて職業選択の自由が制限され、生まれた土地に縛られていた人々は、18世紀後半の産業革命以降、都市に移住して自由に生き方を選ぶようになりました。しかし20世紀になると、肥大化した都市の希薄なコミュニティと「国家」という掴みどころのない新たな権力機構の中において、自由であることが孤独感や寄る方なさとして人々を悩ませるようになります。

このような時代の変遷は時の文学にも表れています。中世の文学作品においては『アーサー王』に代表されるロマンスや荒唐無稽なファンタジーが主流でしたが、19世紀以降はリアル志向で自由な人生の指針となりうる写実主義自然主義の作品が流行しました。その後20世紀に入って、カフカの『変身』や『審判』のように近代社会における自由であるが故の孤独感や国家権力に対する無力感が実存主義的な文学として表現されるようになりました。

2章:実存を包み込む国家という概念

近代の神なき世界において、どのように人間のエゴイズムを管理・克服するは大きな課題でした。この問いに対して、神学から独立して宇宙と人間に対する考察を推し進めていた近代哲学の領域では、ヘーゲル弁証法により「個人の欲望」と「社会規範」の対立を克服する上位概念として「国家」を掲げ、国家に奉仕することと個人の欲望とを一致させることで、この対立を克服できるとする人倫(人としてあるべき生き方)を提唱しました。これは実質的に「神」を「国家」に置き換えた詐術であり、全体主義に繋がりかねないとの懸念も持たれました。実際に、人倫の思想はマルクス主義に影響を与えています。国家と実存は相反する概念であり、更なる国家の肥大化や大戦の時代を経て2者の対立はより深くなっていきます。キルケゴールニーチェの、人倫や世俗を頼らない「単独者」や「超人」といった概念は、こうした近代哲学に対する異議申し立てと言えます。

神なき時代の実存の孤独を予言した文学作品に、ドストエフスキーの『罪と罰』があります。神にも国家にも頼ることない人生において、善意ゆえに規範を超えてしまったり、あるいは生きる意味を見失ってしまう実存の悲劇が描かれています。また、社会や外界から逸脱した実存の不条理性を描いたカミュの『異邦人』やサルトルの『嘔吐』は20世紀を代表する実存の文学です。

このように袋小路に直面する実存に対し、サルトルは積極的に他者と関係し、社会運動に参加することで自己のあり方を築いていく「アンガージュマン」という実存のあり方を提唱しました。

3章:隠された「構造」の発見

哲学者レヴィ=ストロースギリシャ神話に複数見られる「父親殺し」のようなプロットのパターンや、南米先住民族に共通する婚姻習慣の研究から、別個の事象に対して類似した構造を見出すことができるという「構造主義」の思考モデルを発展させました。構造は言語や社会の様々な伝統に見出すことができます。これを合理的な自然淘汰の結果であると考えるならば、構造主義は無限の自由と主体性をコンセプトとする実存主義とは両極の考え方と解釈できます。

構造主義的な文学の代表として、南米文学の代表作『百年の孤独』があります。この作品はマジックリアリズムと、伝記や伝説として強調することで物語中のリアリティを担保するために語り部・口上を設定するという神話的手法で語られ、同時代の文学に多大な影響を与えました。

神話的手法の特徴として、共通の構造をもつ物語が並列されることで、物語内の登場人物にとっての悲喜交々が「よくある話」として相対化されます。これは読み手に状況の俯瞰を促し、実存の孤独を救済する可能性を持ちます。このような構造の機能の例として、プイグの『蜘蛛女のキス』では劇中で紹介される数々の物語を通して実存の苦悩から解放される主人公が描かれています。

4章:実存から構造へ 大江健三郎の場合

サルトルが翻訳される以前より、日本にも私小説のような形で実存的な文学が存在しました。戦前は実存的な「私小説」と、社会の変革を訴える「プロレタリア文学」の潮流がありましたが、敗戦後の混乱した状況においては実存的な私小説がそのまま社会や国家に対する批評性を持つようになりました。

復興が進み日常を取り戻しつつあった50年代の後半にデビューした大江健三郎は、初期代表作の『性的人間』では生の実感が持てずに性的遊戯に耽る主人公の悲惨さを描くなど、実存主義を深く掘り下げる作風でした。しかし、続いて『百年の孤独』と同年に刊行された『万延元年のフットボール』では無力感を抱える主人公の周囲の出来事と作中の古文書の内容をリンクさせる構造主義的な手法を取り入れるようになりました。

その後の短編連作集『新しい人よ目覚めよ』では、筆者のプライベートと重なる私小説的物語の中で銅版画化ウィリアム・ブレイクの詩集が繰り返し登場して引用されることで、主人公の実存とブレイクの実存とが構造として美しく調和した作品となりました。

5章:実存から構造へ 中上健次の場合

小説『岬』で戦後生まれとして初めて芥川賞を受賞し、当時待望の若手作家であった中上健次は、続く長編『枯木灘』で文壇から高く評価され、作家としての評価を揺るぎないものとしました。

初期こそ実存的な作風だったものの、自身の身の上が設定に色濃く反映された『岬』『枯木灘』を含む『枯木灘』シリーズでは、神話的手法が特徴的な作家フォークナーの影響によるものと思われる構造的な手法が駆使されていました。物語中には「被差別部落の区域で子供を作った若者が、その子供を親に押し付けて逃げるように都会へ向かい、暫くして帰郷すると今度は自分の子供から孫を押し付けられる」という繰り返される構造が存在します。また、作中に点在する近親相姦的な親族同士の恋愛が父と子、兄と弟の因縁とも重なり、関係性が錯綜していく様も神話構造の典型です。他にも、作中に登場する盆踊りや土地にまつわる伝記なども神話的構造を折り込む仕掛けになっています。

枯木灘』シリーズののちに纏められた短編連作『千年の愉楽』では、構造の世界観はさらに深化します。各編の登場人物の生死を見届ける語り部は、最後に彼女の死を持って物語を閉じることになります。ここで同時にアイヌの神話が挿入されることで、神話の外にもまた神話が連なるという曼荼羅のごとき世界の広がりを予感させる作りとなっています。

構造は物語において、下手に扱えばリアリティや感動を削ぎかねない危険がある一方、同時にコンパクトな作品の中に広大なスケールを畳み込み、また実存の苦悩を癒す機能があります。

所感

以上です。