雑記 in hibernation

頭の整理と備忘録

多様性の尊重と表現規制の矛盾を自由主義の変遷から解く


近頃、表現の自由に関する議論(というほど論客同士のコミュニケーションが成立しているかはさておき、、、)が盛り上がっていますね。面倒なのであえてその具体には触れませんが、個人的なスタンスとしては表現を規制もしくは制限する動きに対しては基本的に反対のスタンスであることを明言しておきます。そして、そのような立場から疑問に思うのは、どちらかというと所謂「リベラル」に属する方々が、なぜ一見してダイバーシティ推進とは真逆を行くような「規制」をベースとした主張を繰り返すのか、ということです。これについて、ネオリベラリズムまたはリバタリアニズムリベラリズムの文脈に遡って考えてみたところ、一定納得のいく結論を見出すことができたので、ここに備忘録としておきたいと思います。

なお、この文章は基本的に僕の(なけなしの)知識の範囲でがんばって解釈したお話なので、政治哲学分野に対する誤解や、それによる不適切な論理展開を含む可能性が多分にあります。主な参考図書は以下ですが、仮に記事中に間違いがあった場合はこれらの書籍の誤りではなく僕の誤読であると思われますので、ご指摘いただけると幸いです(ロジックに対して不要と判断したディテールについて敢えて厳密な分類や定義を無視している部分はあります)。



自由主義」の2つの形

まずは現代において「リベラル」の思想が一枚岩ではない、というか、むしろ全く真逆のスタンスを含む広い概念である、というお話をしましょう。なぜここから話を始めるかというと、この「リベラルにおける流派の違い」こそが多様性の尊重に対する姿勢の相違点の根幹だと僕は考えているからです。

現代の政治哲学におけるリベラリズム自由主義)の対立項として、大きく「消極的自由主義」と「積極的自由主義」がある、と僕は理解しています。中世から近代に時代がうつろう中で人々の自然権を守るべく確立された古典的自由主義は、その後、政府は積極的に社会・経済に介入することで市民の間の不公平を是正すべきである、とする新しい自由主義へと発展していきます(なお、自由主義から発展する諸々の主義のうちここで紹介する幾つかの思想は、対立する思想にも関わらず同じ「新自由主義」と和訳され、ややこしいことこの上ないです。そのため、ここでは「新自由主義」という言葉は使いません。結果として教科書的な言葉の定義からは外れる可能性がありますが、ご容赦ください)。この「積極的自由主義」とでも呼ぶべき社会自由主義の思想は「大きな政府」による市場への積極介入や社会保障制度の整備という形で実践され、特に経済分野においてはニューディール政策による世界恐慌からの経済回復の実績で一定の説得力を示しました。また、ジョン・ロールズの『正義論』で展開された積極的自由主義の構想はリベラリズムに大きな影響を与えるとともに、当時停滞していた政治哲学界に大きな議論を巻き起こしました。所謂「リベラル」という言葉で括られる思想は基本的にこの積極的自由主義を指すことが多いように思います。

一方で、20世紀の経済的停滞を背景に、主に経済学の領域で政府の市場への過度な介入を否定し、市場原理主義への回帰を主張する「消極的自由主義」とも言うべき「ネオリベラリズム」が台頭します。元々、経済学の分野において市場原理主義はアダムスミスの「見えざる手」に代表されるような古典経済学の派閥として存在していましたから、20世紀に入ってシカゴ学派が積極的自由主義を批判する流れで、消極的自由主義ネオリベラリズムとして再興した形となりました。このような経緯から経済思想としての性格が強いネオリベラリズムは、消極的自由主義を政治哲学の範囲に押し広げる形で「リバタリアニズム自由至上主義)」の思想へと発展してゆきます。積極的自由主義が一般に「リベラル」と呼称されるのに対し、消極的自由主義は「ネオリベ」というワードで指し示されていることが多い気がします。

このように一口に「自由主義」と言っても、正反対とも言える主張を持つ2つの流派が存在するのです。それは、政府が社会に積極的に介入することで不公平に起因する不自由を無くそうと考える「積極的自由主義」と、政府の介入を最小限とすることで個々人の自由意志による活動を尊重する「消極的自由主義」です。なお、ここで一つ留意しておくべきは、特に米国の自由主義思想において最終的に実現すべき目標は結果的な富の均一化ではなく、あくまで機会の均等である点です。「基本は自由競争だけど、スタートラインは揃えようぜ」といったイメージでしょうか。あるいは、バトルロワイヤルの最初の武器配給で「あいつは拳銃だけど俺は鍋のフタ」みたいなのはなくそう、みたいな。


多様性と自由主義

自由主義の流派についてざっくり整理できたところで、ここでようやく多様性についての話です。そして、ここからさらに僕の個人的な解釈としての論が強くなっていくので、ご注意です。

まず、自明の内容とは思いますが、改めて自由と多様性の尊重とがどのように関係しているかについて考えます。ダイバーシティ云々に関する記事をざっと読み流した限り、多様性の尊重を推し進めるべき理由として、大きくは「それが合理的である」ことと「それが道徳的である」ことの2つがある、と僕は解釈しました。前者は「多様な属性によって構成された社会・組織は、そうでないものよりも発展・持続するポテンシャルが高いと考えられる。したがって多様性を尊重すべきである。」との考え方です。後者は「多様性が認められない社会とは、属性や習慣・思想から不当に差別されたり不利益を被ったり機会を奪われたりする可能性がある社会である。これは人権擁護の面で正しくない。従って、多様性を尊重すべきである。」という考え方です。

ここでは後者の道徳的観点にフォーカスし、それぞれの自由主義が多様性の尊重のために表現の自由をどのように捉えるか考えてみます。

まず、積極的自由主義ではどうでしょうか。社会的弱者をケアすることで機会平等を目指すスタンスに従えば、何らかの表現に対して「不快に思う人がいる」=「不利益を被る人がいる」のであれば、それを積極的に排除し、万人が住み良い社会を作ろう、と考えるのではないでしょうか。まして、不快を感じている集団や個人が社会的弱者に該当するのであれば尚のことです。積極的自由主義においては「表現を受け取る側の自由が制限される」ことは認められず、その結果として表現の制限が認められうる、と考えられます。

一方で、消極的自由主義の立場ではどうでしょうか。こちらは、可能な限り個々人の自由意志と活動を制限するべきでない、という姿勢でした。従って、多様性を尊重するのであれば「表現そのものの多様性」が尊重されるべきであり、表現を規制したり制限したりすることは許容できないと考えられます。あらゆる表現が個人の自由な活動の結果として生み出されている以上、仮にその表現が誰かに不快感を与えたとしても、法に背かない限りでそれが社会に存在することは許されるべきである、との帰結に至るのではないでしょうか。消極的自由主義においては、「表現という行為そのものの自由が制限される」ことは認められず、その結果として表現の制限は受け入れられない、と考えられます。


表現の非対称性

上記から、積極的自由主義と消極的自由主義の相違点は「作り手」と「受け手」のどちらの自由・多様性を尊重するべきか、という構造として整理できそうです。ここで積極的自由主義において受け手側の立場が重視される理由として「表現の発信側と受信側の関係は非対称である」という前提があるのではないかと僕は感じるのですが、これに対して若干批判的な意見を述べておきたいと思います。

伝統的な考え方では、発信側は表現物で受信側を加害しうる一方、受け手は発信側に影響を及ぼしにくいという点で、その関係は非対称であると言えそうです。また、受け手がコンテンツを取捨選択しようにも、そもそも発信されるコンテンツのラインナップ自体をコントロールすることも困難です。受け手が自由意思で選択したと言えるほどの選択肢が市場に存在することが保証されないのです。従って、この非対称な関係性の中で受け手は常に弱者であり、被害者であり、積極的自由主義の文脈ではケアされるべき対象です(そして裏を返せば、作り手は常に加害者になりうる立場です)。発信者の権利を重視することは、すなわち弱者を蹂躙する権利を発信者に与えることであり、それは許容できない、と解釈できそうです。

しかしながら、そもそもの前提として、はたして現代において発信側と受信側の関係は依然として非対称であると言えるのか、という点については議論の余地があると僕は思います。十年前までは確かに前述のような非対称な関係性があったかもしれません。しかし、情報通信技術が発達した昨今では旧来の構造は最早成立していない、というのが個人的な私感です。理由は2つあり、第一にほぼ全ての個人が何かしらの発信手段やメディアを持つことができ、大なり小なり発信者としての側面を持ちうること、第二に個々人が徒党を組み、意見を集約して発信者や企業にフィードバックするハードルが下がっていることです。現に、一部の層から「望ましくない表現」と見做された表現物に対する不買運動や署名運動が実施され、それらの活動が一定の成果に繋がった実例もあります。そのように考えると、旧来の「発信側=加害者 / 受信側=被害者」という固定された図式は成立せず、あらゆる個人や組織がフラットな立場で、ある面では加害者、ある面では被害者として多面的な側面を持つのが現状ではないかと僕は思います。そして、その関係性の中では、むしろ受け手が発信者の表現の自由を侵害するという形での加害も成立し得ます。仮に関係の非対称性を根拠として道徳的責務を発信者のみに負わせようというのであれば、そのロジックは前提の時点で成立しないと考えます。


結論:多様性の尊重と表現規制は矛盾するか

さて、ここまでだらだらと書き綴ってきましたが、結論に入りましょう。 上に説明したように、消極的自由主義の立場から見る限りで多様性に矛盾するような積極的自由主義者の主張は、「社会的弱者をケアすることで機会平等を目指す」スタンスにルーツを持つ「誰か(特に社会的弱者)に不快感を与える表現があってはならない」というロジックであり、これは少なくとも受け手側の視点に立てば多様性の尊重に矛盾するとは言えず、一定の納得感がある、というのが僕の考えです。しかしながら、受け手側の権利保護に対して発信者側の表現の自由が明確に劣後している点には違和感があり、この責任の偏りの論拠を受け手と作り手の関係の非対称性に求めるのであれば、昨今においてその関係性はフラットで多面的なものに変化しているゆえに論拠としては有効でないと考えます。


もうちょっとだけ続くんじゃ

結論が出たのだから、この記事はもうここで終わり、としても良いのですが、せっかくなので僕の個人的な価値観についても垂れ流しておきましょう。ここからはさらに僕の主観マシマシで、ロジックというよりも直感に基づく感情論に過ぎませんが、まあ構わないでしょう。僕には表現の自由があるのですから。(そして、あなたにはこれを批判する自由があります)

思うに、「誰もが不快な思いをしない健全な社会」など存在しえないし、存在するとしたらそれは理想郷の皮を被ったディストピアです。その世界では、結果的に「不快」が均質化された社会は、それ自体多様性とはもっともかけ離れた世界ではないか、とも思います。この世は清濁伏せもつカオスだという、例えるならば墓所に眠る新人類を殺戮してまわった漫画版ナウシカのアレこそが僕の世界観であり、それゆえに西洋の神様よりも日本の八百万の神様を身近に感じていたりするような僕ですから、コントロール可能な世界・チューニングされた世界などはそもそも想像できないのです。不快なものを排除し切った社会に、僕にはディストピアにしか感じられない未来に、「リベラル」な方々は一体どんな姿を思い描いているのか、その点は純粋に興味があります。